昭和44年05月23日 朝の御理解
御理解 第29節
「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ。桜の花は早う散る。梅の花は苦労しておるから長う散らぬ。」
いわゆる信心辛抱を教えられた訳ですね。信心辛抱「信心辛抱さえしておけば、物事整わぬ事なし」久留米の初代が石橋先生が、四神様から二代金光様ね頂かれたね御教えであります。ところがその信心辛抱しておると、なかなかもう辛抱はしておっても信心は、あのう本当な事が出来てないと。ただ長年信心をしておると続けられておるというのだけではいけんなんですかね。信心辛抱でなからにゃなりません。ところが実はこれは非常にやはり難しい事だと思いますですね。
そこで私は思うのですけれどもね。やはり信心辛抱が本当にこのし良い辛抱がし良い信心、又は辛抱しなければおられない、とこう自ずとこう力が出て来るような沸いて来るような信心。いうならまぁ足ろうたいうかね。揃うた信心。まいうならばこの様なおかげも見せて頂ける。この様なおかげも頂かれる。しかもこの様に間違いなく頂けれる、だからいうならば。おかげに元気をつけられて辛抱が出来る。もちろんここで梅の花の信心をせよと、仰るのはこれはお徳を受ける信心をせよと。
桜の花の信心というのはやはりおかげの信心。桜の花が咲いた様に華やかな例えばおかげを受ける。けれどもそのうおかげだけの信心は、やはりこりゃ桜の花がひと風受ければね、雨風にでも会えば一辺で散ってしまう様に散りやすい。おかげは散りやすい。そこで梅の花の信心をせよと。信心は力を受けるんだと。信心とはお徳を受ける為に信心をするのだという信心。そこのところの思い込みが徐々に出来て来る、段々出来てくる。そういう信心を梅の花の信心とこういう。ここではいうておられると思う。
御利益から御利益を求める信心を、桜の花の信心。自分の思うようにならないと、信心をパッとこうやめてしまう。それがやはり桜の花は散りやすいと仰るのは、御利益信心は散りやすいと。お徳を受けていこうという信心は、梅の花の信心のようなものであるから長う散らぬと。花が咲いただけではなくて、そこに梅の実が実っていくように、しかもその梅の実は、いつまでおいてもいい、言うならお徳になって行くと言う、お徳の様なしんじんですね。梅の実がやはり梅干しという所まできますと。
何時迄置いても悪くならないような。いわゆるあの世に持ってこの世にも残しておけれるという様な信心。それをお徳とこう言う。そこでその私共がですね、そこんところをそんならそのう、お徳を受ける信心だからもうおかげはいらんというのでも、そのうちょとおかしいですね。それでは私は何と言うでしょうかね、やはり辟易して来るでしょうねえ。私のいとこに田川郡に牟田という人がおります、私の従兄になりかす、私よりも7つ8っか上ですから。
そりゃもう本当にたまがる程熱心な信心を致します。もうそもそも父親もやはり信念を一緒にしておりましたけれども、あまりにも息子が熱心に信心を致しましてもね、もういうならなにもかにもあげしまうちゅう様な、熱烈な信心ですから、とうとう息子の信心に付いて行き切らずに芯っ人をやめてしもうた。もうそしてそのうこの人はお徳を受けるということよりも、そのうめぐりのお取り払いを頂くとこういう訳ですね。だから自分に一代はどんな難儀苦労してもいい。
ここにあるこういう牟田の家にある。めぐりのお取り払いを私が一生一代の内に、ただ取り払うて頂くとこういう。ただ子供に孫にはどうぞ子のめぐりが残りません様に、私があぁその一代の信心を追加してもらう、そりゃもう実にそのうまぁ素晴らしい信心をいたしますね。私共やっぱり10近く違いますから、まぁこちらに参りましても、もうどんなに時でも、善道寺の教会近くにですね、ちゃっと朝参りをするんですよ。でその熱烈なその信心を致しますが。もう本当にあのう現在ではまだ。
何十年前父親がおります頃が相当手広う、絣の卸小売りを問屋を致しておりました。それがあのうそれも商売も出来ない様になり。でお取り払い下さいとい訳なんです。それは聞いただけでびっくりするごたる様々な修行をしとります。しかしそれはあの人だから出来るんだと思うのですよ。言うなら御利益らしい御利益を受けていない。只その熱烈な信心をさしてもらうて、こうやって一生懸命信心さしてもらっておる事によって、めぐりのお取り払いを頂いておるんだと、思い込んでいるのですから。
おかげなんかひとつも思わないように見えます。御本部参拝なんかでも会いましてもですね、もうなっぱ服どん着てから、もうずうっとお掃除をして回ったり、その御本部でしてるんですよね。そのかわりやはり非常に強い信念なんかもてます。けれどもこれではですね私どうだろうかと。夕べも話した事ですけども、夕べあのう田主丸の共励会から皆んな帰って、あすこへ一番に泊られる人達が残っておりましたから、ちょうど十二時過ぎ迄もありましたでしょうか、まぁ一生懸命信心話にまぁ花が咲いたんですけれども。
とにかく金光様の御信心はんね、人間がさしてもらう御信心だと。そりゃキリスト教だって仏教だって人間がしてるんですけれどもね、どうもね人間がする信心にゃあまりにもですね、そのう難しいね。本当の仏教とかいわゆるキリスト教というのは。どこまでも私金光様の御信心は、人間凡夫がさしてもらう信心であり、しかもその人間凡夫がです、痛ければ痛い痒ければ痒いでです、そこを掻いてもらろうたり擦ってもろうたりさせて頂きながら、しかも御神徳を頂いていこうという信心。
だから金光様の御信心こそ本当言うたら、人間がさしてもらう信心だといわゆるね。ですからその人間がさしてもらう信心という事はどういう事かというとね、難儀な時には難その儀な事が願われる縋られる。それが間違いでない証拠にです、そういう信心の中から、真の信心が分からしてもろうて、御神徳を受けていくと。そこのへんがその兼ね合いというか、そのおかげとお徳を受けていくというそれが、この一緒に頂いていけれるというような信心。それは丁度子が親にものを頼むように、心安う願われる信心。
それからというて、なら親が子をまた思わん親はありませんからですね、その親のいうなら厳しい躾けの中に、成長していきますように、厳しい躾けの中に本当の信心が育っていくというような信心。昨日、夕べの御祈念の終わり頃に、ある教会の御信者さん方がちょうど1時間かかるここまで。自動車で三人連れで参ってまいりました。先日お願いしとった事がもう、親子別々に住んでおられるけれども、期せずしてそのうお長居しとった事が、まぁ一緒におかげ頂いた。
でそれぞれにそのうお礼を申し上げならんというので、まぁ息子さん達夫婦がお母さんをさそうて参って来てるんです。のですぐ御祈念が済んですぐ下がらして頂いて、なかなか帰ろうとされませんから私もそこで、いろいろ一緒に話しさせて、結局ちょうど11時ごろまでお話さして頂いたんですけれども。まぁ時々ではありますけれども、合楽にお引き寄せ頂いてから、そのう信者さん方が非常にそのう熱心であると同時に、皆さんが親切だと。そしてあのう月次祭なんかにおう拝ませて頂くと。
もうびっくりするほどそのう盛大な、そのうまぁお祭りだという様なそのう事をいうとられましたが。確かに本当にここでまぁ言うならば、桜の花のような桜の花のようなおかげの受けやすいと言うか、受けられるようなやっぱおかげをですね、合楽じゃおかげを受けておる。それがまぁなにかにこうやって脇から参って見えた方達には、そういう風な目にそういうふうにまぁ映るらしいのですね。けれどもその桜の様なまぁおかげを頂いておりますけれども。その内容としてです。
これはやはり信心辛抱梅の花という、そのう梅の花の様な信心もさせて頂いておる積りですけれども、やはり桜の花の方が濃いようなやはり感じです。そこでここでお徳を受けていくいう、力を受けていかねばならんという、そこに発心させて頂いた人達が信心がです、まぁ梅の花に当たる訳でございましょうが。昨日も青年の方達と話しとる中で、久富博通さんが、久富先生のところの三番目の息子で、若先生と友達ですから子供ときからそのう教会に縁を深く頂いておる。
他の兄弟たちは信心は出来ませんけれども、そのうまぁあの人熱心にまぁ信心の稽古が出来て、いわゆる自衛隊の方に行かして頂いておかげを頂いておる訳です。けれどもそのうまぁ私が申しますのに、博道っつあんまぁだあんた達くらいの年配でね、おかげども頂こうと思いなさんなと私。あぁたがどうだろうかねおかげを受けて、現在あぁたが27か8でしょうかね、で例えば一門の商売人になったとか、ひとつの事業が思うようにいっておるというような事であったら、もうこれは大変な事である。
今、例えば不如意である思うようにならんという事が、結局あぁたの信心を今、いわゆる梅の花の信心を、今こそ神様が求めておいでられる時であるから、その信心の方をさせて頂き。何年後また何十年後に、ひとつ分からして頂く事は、ようもあの時分にいわば御利益、おかげを頂いてなかったという事が、有り難い事が分かってくる。今こそ信心辛抱いわばしなければならんという訳を、今話させて頂いたんですけれどもですね。確かに私はそうだと思うです。
ところが合楽の人達の信心の中にその、そのう辛抱だけではですね辛抱しきらない性格を持っておるようですね。ですからどしてもそのうおかげの方を見せて下さる。もう神様の間違いなさ。それこそ花が一辺に咲いたようなおかげも頂かして頂くね。そういうおかげを頂きながら、信心辛抱が本当に出来ん梅の花の信心が、出来なければいけない事をです、ひとつ肝に命じておかねばならないね。そこで自分の信心というものがです、梅の花の信心がどれ程頂けていきよるか。
今こそ御神徳を頂いておるんだと言えるような実感を持って、信心させて頂いておるかどうかを、いつも検討していかにゃいけん。いくら参ったっちゃおかげを頂ききらんといったような、へこたれた考え方はこれは桜の花の信心に終わってしまわなきゃならない。ひとつ同時になんというですかねぇ、例えばこのう道を通っておりますと、こういろんなね自動車なんかで通ておりますと、道がそれぞれの家の中がこう見えますよね。それがずうっと夏なんかはそのう奥の方までこう部屋が空いっとって。
裏ぁの方まで庭やら泉水やらまでが見える様なお家が有りますね。どんな立派なお家でもこう表から裏までずうっとこう見える様なお家がある。どうも合楽の信心にはそういう傾向があるんですよ。もう外から家が覗いて一番向こうまで、覗かれるといった様な感じのところね、ですから本当にそのう何というですかね、そのう奥ゆかしさといった様な信心に欠げておる。という事はですねまぁだまぁだ、私共は梅の花の信心の方が非常に弱いという事を言わねばならんのです。
それは見られましてもです、まぁおかしくはない様な、例えばおかげを頂いておりましてもです、これはやはり桜の花の信心といわなきゃならんね。私共に欠げておるのはやはり梅の花の信心である。と言うてその梅の花の信心もですね、というてならおかげを受けんでよいというこたぁない。やはり神様の間違いのない華やか、言うならここでお月次祭とか御大祭に感じられるような、言わば華やかな迄に感じられるおかげも、銘々頂いていかなければならん。
そしてその内容として私、信心辛抱梅の花の信心が出来なければならない。だからこれは「桜の花の信心より、梅の花の信心をせよ」こう仰るが、私共は桜の花のようなおかげも、まぁ頂かしてもらい。特に合楽はその桜の花的な性格のま性根と言った様なものが強いのですから、そこんところをよく自覚しておきましてね。そしてこれではならぬ梅の花の信心、自分達に欠げておるところをひとつ、本気で自分のものにしていこうという様な、信心意欲を燃やしておかなければならん。
本当に私は思うんですけれどもねぇ、まぁ合楽ではまぁそう申しますねぇ。梅の花の信心、桜の花の信心、それにまぁいうならしだれ柳のような素直な信心。その三つがをこき混ぜたようなですね、そのう信心であると。だからお互いもそういう信心をさせてもらわなければいけないと。まぁあこれは私共の理想ですけれども、それをよくよく自分の信心を自分一人一人の信心を見てみますとですね、やっぱり桜の花が一番強い。揃うていないね。ですからどうしてもひとつ梅の花の信心。
私はこれでひとつ徳受けるのだと。ここんところをひとつ信心辛抱し抜かせて頂いて、今こそお徳を受けていくんだといった様な、例えば強い信念的な信心がですね、お互いどの位出来ておるであろうかと。苦しい時にゃ早う楽になりたい早う楽になりたいという信心じゃないだろうか。それではねその苦しい時がおかげにお徳にならんのですね。苦しいから早く楽になりたい早く楽になりたいという信心。おかげ受けてもですね、そりゃおかげを受けますけれどもね。
それでは唯の花が咲いたようなおかげを頂くだけであってお徳にならん。その苦しい時こそお徳を受ける時であり、力を受ける時であるとひとつ思い込ませて貰うてね、その苦しい時にです信心の本当の深さというかね。神様の思いの深さと言うか、信心のいよいよ有り難さというものを身に付けていく信心であってこそ、それが梅の花の信心だろうと私は思うのです。それけん果たして私共のいろんな信心を持っておるようでありますけれどもです、その力をお徳を受けていく信心が非常に弱い。
そこんところをひとつ思わして頂いて、梅の花の信心をいよいよ本当に身に付けさせて頂きたい。今日は桜の花の信心をまぁおかげの信心というふうに今日は申しました。ここで梅の花の信心と仰るのは、お徳を受けていく信心だというふうに申しましたね。確かに信心はそのようにして出来ておるようであるけれども、果たして苦労の中にですね、辛抱しとる事はしとるけれども、その辛抱が早く楽になりたい早く楽になりたい。私の従兄じゃないけれども。一生どらおかげを頂かんでもいいと。
いった様な事ではなくてもいいからですね、その苦しい中に梅の花の信心ですね、梅の花の香のするような信心をです、頂かなきゃならんが、果たして梅の花の信心が本質的な梅の信心が、どの位出来ていきよるかという事を思うて、もう一辺そのう力を受けていくね、梅の実が実っていく様な信心を頂いていかにゃいかん。でないとですね頑張りがきかん。そこに信心の味わい本当の信心の味わい、おかげの味わいじゃなくてね。信心の味わいが出て来るのじゃないだろうかとこう思うのです。
本当に合楽の信心は様々な信心を一緒にしておるとこう言いながら、今日改めて頂いてみるとです実際はやっぱり桜の花の信心だと、こう決め付けられても仕方がない様な感じが致します。それはやはり散りやすい。銘々の信心の中にどうでも桜の花の信心がそのうね、本当にこう根を下ろた信心。一枝降りてきたといった様なもんじゃなくてから、梅の花の信心が本当にもう根を降ろしておるという様な信心をですね。いよいよ頂いていかねばならん気が致しますですね。
どうぞ。